#5「羅生門」芥川龍之介 2018/11
芥川龍之介の作品をそれほど沢山読んではいない私は、いくらこの作品が傑作とか名作と呼ばれていても、まだ、この作品の良さ、凄さというものがよく分かっていない。
ただ物事というのは、なんであれ「すぐに理解できるもの」より「後になって良さが分かるもの」の方が、程度のいいものと決まっているものなので、この小説もこれから先、一生のうちにまた何度か読み返すことも必要なのかもしれない。
つまりこの作品、確かに強烈な光景描写だと思うし、読んだ後しばらく忘れられなくなるような強い印象が心に残るものの、そこに大きな価値を今の自分には感じ取れない。
私は、名作だからといって分かったような解釈をしたいとは思わない人間なので、今のところの自分にとっては、そういった感想しか言えない。
だからこの「羅生門」の中のおぞましい光景を読んだ後に、ああ読んでよかった、とは感想を書けない。
話自体は単純シンプルなものなので、深読みしようと思えば色々な解釈ができるのかもしれない。
が果たして、この下人と老婆のみにくい争いに、そこまでの深い読みが必要なのか、などと私は思ってしまうのだ。
われわれ読者が思っているほど、果たして作者はそういったものを狙っていたのかどうかは今となっては分からない。
作曲家などもそうであるが、芸術というものは、その作品がはっきりとした目的や主張を示しているものも無いことは無いが、一般的に私たち鑑賞する側ばかりが先走って勝手な解釈をしてしまう場合も少なくないものだ。
#4「富嶽百景」太宰治 2018/10
昭和の時代に入ってからの小説(昭和14年)なので、文体も現代の小説に近く、とても読みやすかった。
この話は、小説というよりはどちらかというと太宰の日記に近いもので、富士山の近くの茶屋に泊まり小説の執筆をする太宰の様子が描かれているといった感じのものだ。
それゆえ、特にドラマティックなシーンや感動を呼ぶシーンも無いが、フィクションの小説ではうかがい知ることのできない、「素の太宰」の人となりが少しうかがえて面白い。
この話を読めば、太宰は決して芸術家肌の変人などではなく、普通の若者で、ユーモアもあって洒落っ気もあって、特に気難しいタイプではないように思えた。
とはいえ、この時代の若者は現代とは違って、とても大人で落ち着いているとも感じられる。
富士山の見える茶屋で、ゆっくりと時が流れてゆく様子が感じられるような小説だ。
#3 「女生徒」2018/9
「女生徒」という字ヅラを見るだけで、男というのは様々なイメージと妄想に囚われるものだ。
主人公はおそらく中学生か高校生くらいの年ごろの女生徒。
そうした年頃の女性というのは日々どんな事を考え、感じ、生きているのか。
これは、男にはほんとうのところは何も分からない。分かるわけもない。
しかし、太宰はこの主人公の女生徒の心情を、少女のつぶやきという形で、見事に言い表している。
つぶやき方も女の子のしゃべり方なのも少し面白い。
特に私が面白く感じたのは、主人公が電車に乗り込んだ時のシーン。
電車やバスといった公共の交通機関というのは、色々な年代の男女が一緒になる空間だ。
そういう空間で見かける他人のちょっとした動きや表情やしゃべりに対する女生徒の心情がよく描かれている。
向かいの座席に座るサラリーマン。歳をとった女。
そういった人たちに対する女の子独特の感情が面白い。
刻々、様々な感情が渦巻く少女の時期。
そこには、いつまでも清らかでいたい、と願う少女がいながら、それに反してどんどん日々成長してゆく自らの心や肉体に対する憎しみ、悲しみ、やるせなさ。
女としてこれから幸せに生きてゆく為の疑問や葛藤。
このように、太宰の、女の子に乗り移ったかのような表現の的確性には驚くばかりだが、しかしながら、こういった若い時期の女性の心情というのは、若い時期の男にも似たものがある。
いやむしろ、私などはとても同感できる箇所が多かったし、だからこそ太宰にもこういった小説が書けたのだと思う。
女性は男性に比べれば、思春期に肉体的な変化が大きいので、心情の揺れも大きいに違いないが、男性でも若い時期には心が女性と同じように揺れる。
ひどく大人が汚いものに見える時期があるし、それなのに自分も大人になってゆかなければならないという葛藤や不安や悲しみは男女共通の心象風景だ。
だからきっと若い時期の感情に男女の違いなど、そう多くは無いのだ。
男でも女でも、人間は生まれたからには死ななければならない。老いなければならない。
その前に、成長しなければならない。何ものかにならなければならない。
そういった、人間として生まれてきた者共通の「生まれいづる悩み」「時が過ぎてゆくことの寂しさ」といったものがとてもこの小説から共感できる。
人はみな強いわけではない。
強く生きたい、強くなりたいと思いながらも、生きるのに必死なのだ。
#2 「吾輩は猫である」夏目漱石 2018/8
多くの日本人が名作と呼ぶこの小説。私は初めて全部読んでみた。
しかし残念ながら私には、とにかく話が長く感じたし、表現も回りくどく、可愛げの無い猫の語り口があまりに嫌みに満ちていて、好きになれなかった。
これがユーモアと言ってもいいのかもしれないが、何より語り口やもののたとえなどがあまりに古臭く、現代の感覚からしたら笑えない部分が多かった。
それゆえ最後まで読むのもたいへんであった。
これは最近、私がテレビやラジオに出てくる落語家というのがすごく嫌いになったことと関係してると感じている。
私は最近どうも落語家という存在が好きになれなくなった。
話す内容がいつも面白く感じないし、それに加えて、しゃべり方や表情などで無理に笑いを取ろうとしてることがいつも見え見えで、笑えないことが最近特に多くなった。
昔の小さんや円楽(先代)や小円遊、林家三平などがいた頃はどうもそんなことなかったのだが。
この小説には、どうもそういう雰囲気が感じられてしまって、自分には笑えなかった。
とにかく主人公の猫の言葉が嫌みなほど回りくどく、無理に読者を笑わせようとしてるところに嫌悪感を感じるのだ。
そもそもコメディ、喜劇というのは悲劇よりも難しいものであって、時代を超える悲劇は多くあるが、時代を超えた面白さを持った喜劇というのは、チャップリンなどわずかな数しかない。
そういった意味では、この小説のコメディ性というのは、時代を超えるようなシロモノではなく、時代遅れの古臭いギャグ、冗談の連続ばかりと言ってよい。
無理に面白おかしく見せている感じがしてしまうと、お笑いというのは悲惨なものになる。
人それぞれの好みはあるだろうが、この小説は、私には合わなかったし、その嫌味に満ちた語り口などが最後まで共感できずに読み終わった。
#1 「坊っちゃん」夏目漱石 2018/7
今から100年以上も前の明治時代の作品であるので単語や言い回しで分かりにくい部分も多々あったが、登場人物の個性や主人公の坊っちゃんの気性が面白く描かれていて、それなりに楽しめた。
分からない箇所はその都度調べていると先に進めなくなるので、とりあえずそのまま読み進み、また何度か繰り返し読んでみて少しずつ理解してゆくのもいいのかもしれない。
新任教師として四国の学校に赴任になる坊っちゃんが、生徒や学校の先生たちとの間で起こる様々な出来事を経験してゆく様子が、坊ちゃんの一人称で語られてゆく。
私はこの作品の中の若者らしく一本気な性格の坊っちゃんの考えが好きだ。
長年に渡って学校に勤めている赤シャツこと教頭のような「事なかれ主義」や「責任逃れ」ばかりの腐った人間というのは、いつの時代でもどこの会社でもいるものだ。
そんな奴に対して、いつの世も坊っちゃんの心を持った青年は反発心と怒りを抱くのだ。