#10「注文の多い料理店」宮沢賢治 2020/11/17
2人の男が見つけた注文の多い料理店には店の廊下を進むたびに色々な注文が書いた扉がある。最初の方の扉には「ことに太った方や若いお方は大歓迎いたします。」と書いてある。この物語を最後まで読むと、やっとその意味が分かる。この強烈なブラックユーモア!
この小説も「銀河鉄道の夜」同様、二人の男が料理店の廊下を進んでゆく「移動」する感覚が読むものをわくわくとさせるのだ。
廊下を(物語を)進んでゆくにつれ、次はどんな注文が出るのか、という期待と、途中から読者が気づいてくるにつれ増してくる恐怖がじわじわと迫ってくる。
物語の冒頭で、動物を銃で撃ち殺す快感を語り合っていた二人の男が物語の終盤、どんな状況に追い詰められてゆくのか。
命の大切さ、人間の愚かさを感じさせてくれる、とてもシンプルでありながら奥深い作品。
#8「銀河鉄道の夜」宮沢賢治 2019/2
ジョバンニとカムパネラが銀河鉄道の列車で様々な光景や人々に出会いながら移動してゆくファンタジー。
電車旅というのは車窓から見える風景が刻々と変化してゆくから楽しい。
都会から田舎へ。暖かい地から寒い地へ。山が増え、川を渡り、トンネルをくぐり列車は進む。
途中、雪が降り始めたり、太陽が出たり、月が隠れたり。
この物語の銀河を走る鉄道も、走りながら様々な色彩と光の中を通り抜けながら、どんどん風景は前から後ろへ去ってゆく。
カラフルな色彩と漆黒の宇宙の中の光のキラキラとしたきらめきが文章の中で表現されていて、読むものの想像力を刺激する。
また、この銀河鉄道が地上を走る列車と違うのは、車窓からの風景が横への移動だけでなく、上下方向へも移動していてるというところ。
この立体的な描写がすごい。
文字の表現だけで、ぐわっと列車が宇宙空間を縦横無尽に移動している感じが伝わってきて、読むものをわくわくとさせるような想像の世界へと引き込む。
物語は現実と想像の世界、生と死の世界、親と子の絆、など様々なテーマをはらんでいて、銀河鉄道とはなんなのか、銀河鉄道の終着駅はどこなのだろう、といやがおうにも考えさせられるのだ。
この小説を読んでしばらく後に私はアニメーションの「銀河鉄道の夜」(杉井ギサブロー監督)をレンタルして観た。
登場人物がみんなネコというところが不思議だったが、内容はとても原作に忠実に作られていて、その原作の色彩感覚や時空を超えたファンタジー性がとてもアニメ化するのに向いた小説に思えた。
アニメーションという現代の技術が、宮沢賢治の創造物である美しい色彩と光の世界を蘇らせたと言っていい。
細野晴臣の音楽もよかったです。
#7「走れメロス」太宰治 2019/1
読んだ後これほどすがすがしい気持ちになれた小説はかつて無かった。とてもシンプルで、無駄な文章やもってまわった表現の無い、という意味では、私は夏目漱石の小説よりずっとこちらの方が好きだ。
友情を守り、それを証明するため、王に約束をするメロスの青年らしい心意気。友のため走りに走り、川を泳ぎ、王の手先の邪魔者を振り払い、前へ前へと進むメロスの純情。
しかし私は、そのメロスの実直なる大真面目ぶりに、不謹慎ながら読んでいてふと笑ってしまったのもたしか。
いや、それもまたこの小説の魅力だ。
たとえば、話の冒頭から、竹馬の友のセリヌンティウスを、本人の事前の了承も無しに人質として差し出し、しかも自分が三日で戻ってこなかったら絞め殺していい、と勝手に王に約束している事からして、ちょっと考えると無茶苦茶な話だ。
しかも読み進んでゆくと、メロスは王のもとに戻る道々、けっこうさぼって寝たりしている場面も出てくるのも笑える。
しかし、そんな細かいところもあまり気にならないくらい、ストーリーは力強く、爽やかな読後感を感じるに至るのだ。
#6「薮の中」芥川龍之介 2018/12
黒澤明の映画「羅生門」は何度もテレビで観たことがあったが、あの作品はじつは小説「羅生門」を映画化したものではなく、この「藪の中」を映画化したものだということを、この小説を読むと分かる。
さらに映画では、小説「藪の中」に小説「羅生門」の風景をうまくミックスさせている黒澤明のアイディアが確認できる。
そして、映画のタイトルも「藪の中」よりも「羅生門」の方がやっぱり良かったとも思うのだ。
創作物というのは、そういった小さいようだが細かな部分が意外に大切なものだ。
さて、この小説「藪の中」で描かれているのは、殺人強姦という犯罪現場を巡る複数の証言者の証言の食い違いだ。
おそらく結婚が約束されたと思われる若い男女が、旅の途中、多襄丸(たじょうまる)という盗っ人に襲われる事件が起こる。
男は胸に傷を負って死亡。女は多襄丸に手篭めにされ、その場から消える。
その後、橋の上で捕まった多襄丸の証言、寺で見つかった女の証言、そしてなんと巫女(イタコ)を使った殺された男の証言まで、三人がまったく違った証言をしゃべり始める。
ここで私が面白いと思ったのは、普通、犯罪現場にいた人間の証言というのは、罪を逃れるために、「俺はやっていない」「私はやってません」という証言をするものだが、逆に、この話の三人は、殺したのは自分だと言い張っている点だ。
死んだ男も、普通は死人に口無しのはずが、イタコによると、誰かに殺されたのではなく自害したと証言する。
ここに人間の「恥」というものに対する微妙な心理がうかがえる。
この小説での三人は、驚くことに、罪を逃れる事よりも犯罪人となって、恥の無い自分の体面を保つことを優先、潔し(いさぎよし)としている。
いや誰か一人が真実を語っているとすれば、二人か。
人というのは、罪を認め(又は、かぶり)有罪となってでも、自分の恥は死ぬまで認めたくないものなのか。
はたして現代の日本人でもそうなのか。
侍の心があった、この小説の時代の日本人ならではのものなのか。
果たしてどうだろう。
死刑になって自分の体面を保つ、か、恥を忍んで生きる道を選ぶか。